Hostile Architecture

西邑卓哲



◎目次




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 白線が引かれていく。
固い土にのめり込むように重く沈んだ身体の周りをのろのろと白線が歩いている。
摩擦で舞い上がった石灰が私の鼻の周りを軽薄にうろついては太陽に払い落とされていくが
その粉っぽい不快感すらも安酒で仕上げた情緒纏綿たる様相を見せ始めると
まどろっこしく交互に訪れていた土の湿気と石灰の乾きが
唐突にアニメを曼荼羅に放り込んだような過剰に極彩色の立体絵として可視化された。
その曼荼羅の中心にある円が周囲の曖昧な景を吸引するように高速で回転を始めると
スピードを増すほどに衝動的な興奮が、見え透いた韜晦が鼻腔を辱めながらも私の奥の方に侵入を繰り返し
やがてそれは視界の隅々にまで影響を及ぼすと五感全てへの点滅行為を始めた。

びびびびびびびびと耳の入り口からよじ登ってきては眼球の裏側を高速でノックしてくる光の線。
入れ替わり立ち替わりノックしてくるそいつの名前を確認するよりも早く
むしろそれに快楽の頂点である神聖な存在を認めつつ
やがて私は思考を手放すよりも一足早く、全ての感覚を失った。




俺は、今朝、通勤の途中で、子供の肌を焼いた。
卵が孵るような息使いをしていたから。スクランブルエッグのバターの香りを思い出したから。
なんであれその理由はこの世の美学を全て書き記した本があるならば、その中から探し出せるだろう。
住人なきファランステールで情念引力を買った男。人間のうつっていないポルノ写真。
OPP袋から開封したてでふわふわなタオルのような子供の肌に煙草の火がジリジリとおしつけられた瞬間
水分と煙草が溶け合い、まるで決して混ざらないはずの黄金さえ科学という鎧を脱がされて
泥と混ざってしまったかのように美しく蠱惑的なモンタージュが肌と煙草の接点に映し出されていた。
見えないはずの点が大きく大きく映し出されていく。細胞は巨大な点だ。
そのモンタージュを皆が家でゆっくりと見ることが出来たなら芸術の価格も変わってしまうだろう。
ゆえにそれは秘密を伴う行為でなければならない。

秘密には屈辱という副産物も必要だ。
屈辱は人間にのみに許された快楽だから俺は人間性を謳歌して欲を貪り、欲を貪る人間も貪る。
実際にこの目に映ることはないにしてもこのような空想的自殺を免れた細胞たちの小踊りは存在し
幾重にも近親相姦を繰り返し乱雑に絡まった輪が広がって織り成す恐るべき宇宙
それは針のように鋭い興奮をこの細胞に直接注射しては鳥肌を立たせ続け、驚くほどに絶頂の反復を促し続けた。

ばち。

だが小さな音量であったはずの子供の肌の焼けた音が俺の耳元ではどういうわけか爆音で再生されており
それはまるでクロワッサンのカスみたいにだらしない大人が焼け焦げた音にも聞こえてきて
何度も何度も、何度も何度も、数えるのもやめたくなるくらい短期間で再生が繰り返されるうちに俺はこの耳を
果てたあとにも尚、しつこく摩擦され続けた性感帯のように疎ましく思えてきて
急激な恥ずかしさと失望への憤りで自分の耳を思い切りひっぱると鋭い痛みに呻き声が漏れてしまった。

じわじわと広がる痛覚。

ぼたぼたと痛みが地面に落下していく。もう一度呻き声が漏れる。 呻き声は喉から水分を奪うから嫌いだ。
みずみずしさのない声には話すべき哲学も美学も宿らないから嫌いだ。嫌いなものについて話すことも嫌いだ。

自分の呻き声で上書きされてしまった聴覚にはなんの面白みもなく
こんな甲高い情けない声だったろうか、という問いに耳を塞いだり
住人のいない心の奥底をノックしてみたり
そもそも耳たぶってなんだろうとかつまらないことばかりに忙しくて
そのつまらない一つ一つがそれぞれに一つずつ箱にぎっしり詰めた静寂を運んできて
徐々に徐々に耳は音を拾わなくなった。

ばち。

ばち。

ぼたぼたと地面には小さな振動が振り落とされたが男は気づかない。

小さな砂は紙ヤスリのように液体の手足を削り、岩のように無表情な小石はもたれかかることを拒絶する。
輪のような広がりを土の取り巻きに阻まれた赤黒い液体が
だらしなく転んで地面に吸収されていったのをじっくり見届けると
そこに落ちていた耳型の肉片を拾って俺は歩き始めた。


気持ちが悪い。

例えば弱火で丁寧に調理されたスクランブルエッグはむしろみずみずしい固体となって息を吹き返す。
卵黄ならばまだしも卵白に至ってはそこで初めて本当の生命を得ると言えるかもしれない。
美学とは座ることを認めない椅子のように気高くあるべきだ。
アンビバレンツに縒られた太い縄のような究極的行為は生命の価値をも反転させて
デオキシリボ核酸の螺旋のように縒られた迷路とそれでも辿り着くただ一点の先端にカタルシスを受胎する。

にも関わらず耳元では屈辱を隠し持った秘密ではなくただただ無様な汚い髪の露出狂が歌い続けているような
圧倒的に臭い眩暈が耳から侵入しようとしてくることに我慢がならない。

ならばここで相談なのだが

いやこんなことを今さら言われても困るだろうけれど相談というかお願いがある。
お願いっていうものはもし君が耳を傾けてしまったら
叶えなければいけないものだから君を信頼して言ってしまおう。
スクランブルエッグを知っている君ならば。

俺の耳も焼いてくれないだろうか。

 




そうこの耳を。右でも左でもどちらでも。
俺は何かとつぜん自分が間違っているような気がしてきたのだ。それは正しくないことよりもずっとずっとまずい。
ただただ真っ直ぐ歩き続けていたらどんどん街明かりが減っていき
暗闇のぼうっとした先からぼんやり海が見えてきたような、始まりから間違えていたと
気付き始めているのにそれでもまだ1時間歩き続けてしまうような決して後で思い返すことのない隙間の時間が
ずっとこの耳の周りをウンウンウンと呻いて元々居た場所に帰らせてくれない。

突然で申し訳なくはあるし何が不安かは自分でも分からないのだが
まるで何か本当に自分が間違ったことをしてしまったのかと焦るほどに嫌な動悸が舌の奥の方を叩いている。
子供じゃなくて区役所の役人を焼いてしまったような違和感。
自分の亡霊を焼いてしまったかのような妙な後味の悪さ。

俺の左手にはどういうわけか三つ目の耳がある。
痛めたはずの左耳には耳があり、右耳にも耳がある。
余った耳が俺に存在証明を問うてくる。

確かに俺が子供に煙草の火を押し付けたことは悪行かもしれないが
それは悪徳とは結びついても間違いと連結するとは限らない。
悪いことをしても構わないけれど間違ったことをしてはいけないことに俺は14歳の時に気づいた。

それ以来11年ぶりの、いや、11年分の?

急に心臓が物理的に巨大になったかのような大きな動悸が遠くから亡霊を引き連れて駆け寄ってきた。
揺さぶり続ける動悸は巨大な獣が何度も体当たりして山小屋を揺らしているようで心身に悪い
いつだって亡霊は美男美女ではなく年老いた自分の姿でやってくる。

俺はパニックになって4日ぶりに通勤をやめて役所に急病と休みの連絡をメールで打ちながら
何度も何度も耳をひきちぎろうとして、ついには隠し持っていたチタンコートのカッターを手にしてネジを緩めた。
そして持て余しそうな時間を公園でやり過ごそうと思った。

この街には誰にとっても不便で禁止事項が多く居心地の悪さで誰も寄り付かない公園がある。
でもそれゆえにそこは完璧に建築された真っ白い四角い箱のようで美しい場所であった。
老人の皮膚で作られた腸詰のような会社が巣食っているビルとは大違いだ。

公園はガラス張りの正方形の箱の如き美しさを備えながら
そこにあるアイテムそれぞれは近づくもの全てを実質的には遠ざけ排除する気高さを持つことでより構築美を際立たせていた。
シュールという鋭い槍で座りにくく設計された流線型のベンチ、張り巡らされた進入不可能の金網
運動には適さない連続しない平面と多すぎて読む気もしない禁止事項の看板が並ぶ公園。
それは思想の終着駅のように寒々とした美しさをたたえている。

俺はきっと病気だ。だがそれは治すべき病いではない。
理念、それは引力の発明である。
病気は正しい人間にだけ発症を許可する。カフェは俺の病気を吸い取ってしまう。
公園にいこう。美しい公園に。

にも関わらず、わざわざ1分も歩いて漸く公園に辿り着いたにも関わらず
そこには目玉焼きのような気持ち悪い空気が漂っていた。
食べ散らかされたフライドチキンの骨のように手垢のついたベンチが看板が
誰にも掃除されることなく放置されていてかつて崇高に見えた思想的美観は
もはや食べ残されたお子様ランチのように幼稚に見えた。

その失望に両手両足を縛られて公園の入り口で立ち尽くしていたら
無人だった公園に人がやってきた。それは俺の背後からやってきて追い越したので
俺はそいつにまず言葉をぶつけた。
「お前は俺の亡霊だ。」

許せない。今日じゃなければ許したのに。スクランブルエッグは料理人が腕を振るうから美しく息を吹き返すのであって
「お前は俺の亡霊だ。」
憎しみの中で放置したらただの黒い炭である。死んだ祖父や猫の匂いとなんら変わらない黒い炭である。
「お前は俺の亡霊だ。」
お前は。

そうやって俺が頭でいくつもの声をまとめているのに俺を追い越したその男は
目の前で美しかったベンチに横たわろうとしたので思い切り蹴り上げた。男は、う、と唸って動かなくなった。
どうにも彼は弱々しく、そうしてあげることがむしろ俺にとっての正しさのように感じた。
それは彼にとってもそうに違いない。彼の背中にも亡霊がある。
ここにいるってことは彼も病気なのだから。





 

私は、その日、仕事に出る前に首を吊ろうとしてやめた。
ロープもなければ丁度よい場所も見当つかない。調べる気力もない。
私はいわゆるちょっと強めの潔癖症でそれが影響しているのか
誰が捩じったか分からないような縄にはあまり触れたくもなくて気後れで頭が重くなってくるのだ。
化学繊維で出来ていて水を弾くようなのがいいのだけれど思っていたほど容易に見つかるわけでもなく

夜な夜な携帯でゴロゴロと検索しているうちに出勤という社会的な締め切りが玄関のドアを叩きにくる。

いつもそうだ。ただ首を吊ろうという感情だけが時間をかけて熱されていき
そのくせ充分温まると湯気のようにどこかへ行ってしまう。
気持ちに嘘はないけれどきっとこのまま生きていくし
どうせなら全部湯気のように消えてしまえばいいのにと思った。

全部湯気のように?消えてしまえば?

初めてその日、そう思った。なぜ今まで消えてしまえばと思わなかったのだろう。
全部湯気のように消してしまえばいい。罪悪感で少しの水を残して翌朝からまた毎日水を継ぎ足していくより
蒸発しきるまで暖め続けた方が建設的かもしれない。

それは発明のように心を軽くして全てがどうでもよく思えて朝の空気が清清しかった。
思考は同じ回路をずっとループしていくだけかに思えたが
ふと抜け出す瞬間があるとしたらこんな日なのかもしれない。

チューリップが天使と踊るように浮かれた気分で玄関のドアを開けると
昨晩調べた天気予報とは違って空はすっきりと晴れていて
「何かが起こるかもしれない」という高揚感が再びこの身体から滲み出てくるのを感じた。
いつだって上手くいかない。そんな事がまるで全て夢だったかのように心も身体も急に軽くなって玄関を飛び出すと
いつもの街並みがとても綺麗に見えて流れる景色を横目に私はどんどん歩いていった。

ばち。

何かがぶつかってきた。もう一度

ばち。


 ぼたぼたと身体から鈍い音が地面に落下していくのを感じた。動揺している。
私の背後からは何度も何度も大きな声が聞こえてきた。
支離滅裂な怒鳴り声と共に鋭利な衝撃が背中に何度も走った。
スクランブルエッグをかき混ぜるように誰かが俺の背中をぐちゃぐちゃにしている。
動物特有の重苦しい匂いがバターの甘い香りのように漂った。

振り返ろうとすると頭を強く押さえられて耳に鋭利な感覚と尋常じゃない痛みが走り
自分の頭が割れるんじゃないかと思うくらい絶叫した。
絶叫に包まれてのた打ち回っていると背後の知らない声の男の気配は急に消えて
恐らく走り去っていったようであったが、今はその恐怖にすら縋りたくなるほど
それまで足取り軽やかだった私の身体には大きな岩がくくりつけられ一歩進む度に悲鳴のような痛みが必要になり
誰かがうしろから俺の命に足枷をはめていった。

座らなきゃ。座って息を整えたら電話をかけよう。
でもこの街には椅子がない。なんでないんだ畜生。人数分の椅子が家と職場とカフェと学校だけにある。
それは誰かの為ではない。決して座る為でもない。秩序のために椅子は存在するのだろう。
椅子は一つだから求められるわけで少し足りないくらいが丁度良い。
カフェの椅子に座らせて金を取りたいならその道路沿いのベンチは撤去しろ。
そんなことを誰かが言っていたなと脳裏をよぎる。

ああちくしょう。

ぼたぼたと流れていってしまう意識を奮わせて目の前の公園に入った。
公園ならば椅子くらいあるだろう。こんな極限の状況でも地面で服を汚したくないと
潔癖症が茶々を入れてくることが少し面白おかしくもあり、そんな自嘲がなければ
きっと公園に着く前に倒れていたような気がする。

どうにかしてベンチに倒れ込もうとするも どれも奇妙な形で座面の真ん中には凹凸があり
ちょこんと座ることは可能だけれど寝そべることは出来ないようになっている。
駅も公園もバス停もこの街全ての椅子がそうなっていることを思い出した。


そういえばこの公園では浮浪者を見かけない。
時々商店街沿いに広がる路地裏の目立たない場所でダンボールを敷いて寝ている者もいるが
定住はせず皆どこかの街に流れていくのだろう。

眠ることが出来ない街では綺麗な空気に毒された若者たちと
そこから溢れて街を出て行く老人達の背中を見かける。見かけてきた。今初めて認識したけれど。
あれは毒だ。

私はそのどちらにも属さないと思って生きてきたのだけれど
突然この街に排除されている感覚に身が震えた。
今のこの身体の震えがどこからきているかも分からない。

今までこの感覚になってしまった人々は
皆はどこへいったのだろう。
この街の外へ出ることが出来たのだろうか。

白線が私の身体の周りに線を引いていく。
いくつものいくつもの包帯が空から降ってきて私の眼球を丁寧に包み込んでいく。
白い綿にはうっすら血が滲んでいて止まる様子はない。
この白線の内側を埋め尽くすものはなんだ?
想像はついているけれど認めたくはない。
この内側から寒々しい白線の外側に出ることは出来ないのだろうか
誰が私に足枷をはめることができようか。
こんなにも俺の心は今とても軽い。今ならやり遂げることができる

その数刻前、俺は知らない若者に思い切り蹴り上げられて
身体を失った。








 

2021年10月17日作成
c 2021 A Concrete



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●西邑卓哲